なければならぬことは、普通の読者がまず眼を通そうとするもう一つのものが連載小説だという点である。ここに新聞小説と社会面との或る連関、従って又新聞小説の一種の娯楽的性質が注意されていいと思う。
 どうせ新聞小説は通俗文学や大衆小説だから、娯楽のようなものに過ぎない、という意味ではない。むしろ逆に文学者こそ社会の日常非常の現象の最も行き届いた批評家であり、もし仮にそういう文学者の作品をも通俗文学や大衆小説と名づけるならば、文学はすべてそういう意味での通俗文学や大衆小説でなければならぬ、というべきだろうと思うのだ。
 純文学の神様と見做され、純文学青年の偶像となっているらしい横光利一も、実はそういう点で極度に社会的に、従って(今いった意味での)通俗文学乃至大衆小説にはいる作品を書いている(例『花花』)。この点から見れば菊池寛が著しい社会面的事件から多分のヒントを得ているらしいのと、あまり区別はないだろう。
 これを娯楽といって了うのには無論語弊がある。だが大事なのはこの娯楽が他の種類の娯楽と違った社会現象の出現から生じる娯楽だという点だ。というのはこれがやがて井戸端会議の内容にもなるしサラリ
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