一九三五年頃の事件であるが、確か南京の領事館であったが、そこの日本人館員が行先不明となったという出来事を、読者は記憶していることだろうと思う。日本側では之はテッキリ支那官憲乃至支那排日組織の行為だというので、忽ち駆逐艦を急行させたという話しだった。ところが案に相違して当人は朦朧たる精神状態で郊外の山中にかくれているのを、無事支那官憲によって発見されたのである。従って之は遂に紛議のキッカケにならずに済むことが出来た。
それはそれでいいのであるが、しかし当時或る新聞紙は、この館員が山中に逃避するまでの心理過程を、まことしやかに書き立てたものだ。それによると彼は元来哲学的(?)な性格の持ち主であったが、失踪の夜は何等かの冥想にふけって家を出たところ、星の黙示だったか月光の神秘だったか知らないが、彼を誘ってついに山上へとつれて行って了った。彼は山を登るほどに、段々現世からの離脱を快く感じ出したので、遂に山中にかくれて世を厭うにいたった、という筋書きである。
こんな馬鹿げたことを誰も本気にする人間はいないというかも知れないが、しかし、これが堂々と新聞の社会面に段抜きで押し出されるのを見
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