的自由主義者達は、仮にも実際問題を裁決する必要に逼られる場合には、意識するとしないとに関係なく、積極的にオッポチュニストとなるという法則を持っている。このオッポチュニズムの論理から、自由主義の流行風俗とその無論理とが出て来るのである。――で、この自由主義だってファシズムと全く同じいオッポチュニスト的論理に立っているのである。自由主義があんなに流行って、而も自由主義の哲学が未だに出来ないという点から見ても、この種の自由主義がファシズムとその風俗振り流行振りに於て少しも違わないものだということが判る。違いはただ、自由主義の風俗として流行っている文学的スカートの方が、ファシズムのものほど不粋でなくて、その好みが多少エロティックかも知れないという点だけだ。
[#ここから2字下げ]
(本章は一九三四年度に書いたものだ。その後ファシズムと反ファシズムの対抗関係が、日本で著しく発展して来たことを、追加しなければならぬ。特に自由主義と反ファッショ人民戦線との関係は、改めて検討されるべきである。)
[#ここで字下げ終わり]
[#改頁]
6 風俗文学としての社会時評
一[#「一」はゴシック体]
前へ
次へ
全451ページ中90ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング