、非常に大事な規定だと思う。かつて学芸自由同盟というものがあったが(私もその一員だったということを念のために断わっておく)、そのメンバーの大多数が文学者や文士や芸術家だったということは、意味があるのである。
処でわが国のこの文学的自由主義者は、大抵広い意味に於けるヒューマニズムから動機づけられているようだが、客観性を有ったモーラリティーというような論理[#「論理」に傍点]はないけれども、いずれもモーラリストとしての資格は備えている、ということがこの自由主義者の特色だ。処がモーラリストとは結局一種の懐疑論者に他ならないのである。だからここからニヒリスト的な自由主義者も出て来る理由があるわけである。
文学的自由主義者達は、自分のこの懐疑論的な本質を相当よく自覚しているらしく、その証拠には、彼等は意識的無意識的に、一身の利害に関する実際的行為をする段になると、機会主義的な現実主義者となって立ち現われる。懐疑的な人間は、実際行動に際しては、外の一切の価値評価が消去されているものだから、結局最も俗物的「現実」だけを認めることになるからである。
で、元来日和見主義である自由主義者達・特に文学
前へ
次へ
全451ページ中89ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング