。合理的な原則はない。だから又何の理論もないのである。誰も流行に節操を要求するものはあるまい。ここにあるのはただ風俗だけで、而も風俗は、風俗自身としては、将来の合理的な見通しの立たないものなのである。仮に風俗に就いて予言が出来るとしても、夫は景気変動の予言以上に、機会主義的なものだろう。だから論理という首尾一貫した方針ほど、ここで無意味で邪魔なものはあるまい。で、こういう理由から、日本のファシズムなどは未だに筋の通った哲学を持てないのである。論理のない哲学などというものは、仮にどんな博学(?)なものでも、ただのお喋べりに過ぎないからだ。
 ファシズムの流行と無論理とが、その現実主義的機会主義から来ていることは、この位いにしておいて、話しを所謂自由主義に向けることにしよう。云うまでもなく自由主義はファシズムの反対物で、ファシズムは自由主義の敵だと、普通は信じられている。処が今まで云って来た私の話しのコースから行くと、どうもそうではないらしいという結論さえ出て来る。
 現代のわが国の自由主義者達が、実は政治上の自由主義者ではなくて、云わば文学的[#「文学的」に傍点]自由主義者だということは
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