」の「認識」から出発するという日本の外交政策が、ブルジョア外交的(?)なオッポチュニズムに帰着するのであったが、一体こういう「現実尊重」のオッポチュニズムは、一般にファシズムの理論上又政策上の論理の特色だったのである。処が一方、流行を追うという意識は、全くこういう現実の尊重をモットーとする日和見主義に立っている。女のスカートは現在長くなったから長い方がいいのであって、少し前に馬鹿々々しく短かかったという過去の事実にはお構いなしに、長くなっていいのである。
で、ファシズムは女のスカートと同じオッポチュニズムに立っている訳で、そこからなぜファシズムがこんなに「流行」するかということが判るだろう。与えられた現実に匍匐的に追随する日和見主義がその面目である流行には、何も別に理屈があるわけではない。現実の前には理屈などは抜きにするということが、流行の、オッポチュニズムの、特有な唯一の「論理」なのである。ダラシなく長くてダブダブしているファシズムの不粋なスカートが、不粋なりに、理屈なしに、即ち理性と関係なしに、今日は流行する所以である。
流行には無論何にも方針[#「方針」に傍点]はありはしない
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