動向を、力の哲学や力の論理を以て解釈しようとするのは、もし誤解でないとすれば思いやりのない一本調子のそしりを免れまい。
でこう考えて来ると、日本の強力外交の哲学は、実に強力哲学どころではなく却って、一種の日和見主義の哲学であることが判るだろう。与えられた事実を無条件に「認識」して、そこから出発しようとする論理は、経験主義とか現実主義とか呼ばれているのだが、それが取りも直さず日和見主義そのものになるのだ。こうなった以上過ぎ去ったことは問わないとしよう、新しい事実が出て来たら又考え直して見ようではないか、いずれにしても理屈は、匍匐しながら事実の偶然な展開に追従して行きさえすればよい、というのがこのオッポチュニズムなのだ。
少なくとも従来のブルジョア外交は、皆このオッポチュニズムに立っている。こうした消極的で無方針なブルジョア的外交を拒否して厳然たる指導原理に立脚する筈であった日本の強力外交の大方針が、依然としてこうしたブルジョア外交と軌を一つにしなければならぬということは、一体何としたことだろうか。
四 ファシズムのスカートと自由主義のスカート[#この行はゴシック体]
「事実
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