決して人にひけは取らないことを知らせるために、自慢そうに喋り立てているとしか、吾々には受け取れない。私は之を見ると、失礼ながら、キリスト教会で告白をやっている職業的な信者を思い起こす。だが私は未だ曾てこの種の信者の信仰上の節操を、首尾一貫を、信じる気になったことがない。社会は教会ではない。信者を甘やかす牧師も懺悔僧も、社会にはいないのだ。

   三 「事実」の「認識」とオッポチュニズム[#この行はゴシック体]

 日本が国際連盟内外の諸国に対して、満州帝国の承認をせまった際の理論的根拠は、満州帝国が事実[#「事実」に傍点]として存在しているのだから、凡ての理屈はこの事実の前に屈服すべきであるというにあった。日本にとっては、満州帝国がどういう原因から成立するようになったか、又どういう計画、どういう要望の下に建設されたか、等々の、すでに過ぎ去った過去の過程は、今更問題とならないのであって、主張の論拠の凡ては、満州国の存在という厳然たる既成の事実[#「既成の事実」に傍点]の裏に存するというのである。
 実際、満州帝国の存在が厳然たる眼前の事実である以上、たとい支那や諸外国が、之を公式に承認
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