摘される彼の方法の制限だろう。理論的モラルが心理を通り倫理を通り性格を通り風俗にまで形を現わすということが、恐らく唯物論に立つロマンの理想だろう。
 理論的モラルと風俗との融合にかなり成功したのは湯浅克衛「移民」(『改造』三六年七月)だろうと思う。同月の小説の内で読んで時間を損じないのはこの小説かも知れない。移民の一日本人が朝鮮人と階級的に同一の生活感情を持つことが呑みこめると共に、朝鮮貴人風の葬式を出してもらうというのが風俗上面白い。葉山嘉樹の「濁流」(『中央公論』同月)は問題を主人公の性格に還元してしまうところを度外視すれば、やはりこの部類の面白さ即ち重風俗文学の面白さを持っている。一般にロマンの面白さが物語り(説話)にあるとするなら、短篇小説としてのロマンの面白さはモラルの風俗的顕現にあるように思われる。短篇では物語りは無理なのだから。最近ロマンの本質が評論家の問題になっているが、今いった面白さは将来社会においても止揚されて伝承される処であるかも知れない。
『文学評論』(三六年七月)の「馬鹿野郎」(志木守豪)は少し安手だが珍しい風刺小説である。私は馬鹿[#「馬鹿」に傍点]という言
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