伊藤整「性格の層」(『文芸』三六年七月)――これは何か纏りの悪い感じである――や豊島与志雄「坂田の場合」(『文春』同月)、倫理的なモラル(?)では宇野千代のもの、理論的モラル(?)では島木健作のものなどである。片岡鉄兵の「光」(『改造』同月)などもこの最後の場合に数えてよいだろう。
 しかし最後のこのいわば理論的モラルは、心理的モラルや倫理的モラルにくらべて或る独特な条件を持っていることを見逃してはならない。このモラルは一応私小説的なものであるにも拘らず、社会の機構そのものを媒介としているし、またこれを透過しているのだ。科学的(特に社会科学的)な認識が、モラルの認識にまで高められるという、文学の唯物論的認識論(?)の面目を見本のように示すものなのである。島木健作は実際、モラルをそういうものとして理解しているようだし、またそういう風な見地を実行に移しているように思う。この点が彼のプロレタリア的文学者としての模範生の一つの重大な要素になっている。科学的社会認識の文学的形象化ということが。
 併しそれと共にこの理論的モラルの文学が殆んど何等の風俗を持っていないということが、多くの人によって指
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