束ごとだろう。事実問題として私は、この種の無道徳的軽風俗文学に本能的に我慢がならぬ。それが私のイデオロギーだというならいってもいいのだ。
四 人民派と人民戦線[#この行はゴシック体]
仮に武田麟太郎と室生犀星との間に、もし共通点があるとすれば、それはいずれも軽風俗の文学だという処だろう。室生犀星には思想がクッキリと形を取っている、と或る作家が云ったのを覚えているが、「生面」(『文芸』三六年七月)などどうもそうでもないらしい。けれども、しかし何か「モラルの素」とでもいうようなものをひそかに見せてはくれる。矢田津世子「やどかり」(『改造』四月)などもこのカテゴリーにはいる部類だろう。こうした軽風俗のモラリティー、市井のいわば「人民」的モラル、を立場にした作品は今は一つの勢力であるように見受けられる。
人民派的な軽風俗文学のモラルに就ては、方々で議論されている。それは色々な形においてだ。まず第一に中島健蔵風のニヒリズムによれば、あるべきものの文学とかくあるものの文学とに区別されそうだ。例えば島木健作は前者で高見順などが後者だという。後者が今の場合に相当するだろうことは推定してよ
前へ
次へ
全451ページ中56ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング