いだろう。第二にこれは描写の問題として説話体の議論に関係している。軽風俗を市井的モラルの立場から描こうとすれば、懇談的なこの説話体を選ばざるを得なくなる、というようなことも云われている。それから第三にこれは優等生文学と落第生文学というような妙な区別とも関係があるらしい。島木は優等生で平林彪吾は落第生だというのだ。軽風俗文学は落第生文学になるわけだ。妙な比較だが、漱石や小林多喜二は優等生だ。藤村も山本有三もだ。これによると、軽風俗の文学にモラルがあるとしたら、それは理想にではなくて現実自身にあるということになりそうだ。そしてこの理想の側に、思想からイデオロギーから論理からモラルから形象化までもが、押し込まれてしまうらしい。かくて文学は「かくあるもの」のひたすらな描写ということになる。「かくある」ものの楽しさ美しさ真実さの発見、これ以外に作品のモラルもリアリティーもない、ということにもなりそうだ。――併しこれは単にリアリズムのテーゼを反覆するものでしかない。処がこういう結論は例の軽風俗文学の場合から出て来た。それで人民派的文学こそ本当の文学だということになってしまいそうだ。
森山啓は「何
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