由来することは今更説明するまでもないだろう。――で映画の大衆性[#「大衆性」に傍点]は、社会人の普遍的な感覚(現実感・風俗感・エロティシズム其の他)に訴えて、之をいつの間にか道徳・道義感・社会思想に移行させるという処に、その本質を横たえる。映画館は安くて誰でも皆と一緒に見られるから、というような処にばかり映画の大衆性があるのではない。又映画は何本でも複製が出来てどこへでも持って行けるという処にだけその大衆性の根拠があるのではない。
 私は以上、なぜ映画が面白いか、ということを分析して、それを映画固有のリアリズムに求めたわけである。つまり現実のリアリティーが、そのままで[#「そのままで」に傍点]芸術的リアリティーとなる処に、映画固有なリアリズムがあるのであって、同時にそこに他の芸術の真似の出来ない大衆的な満足感を与えるものが横たわっているというのである。之は映画がもつべき本来の劇的又文学的価値とは一応別で、それ以前の先決条件に他ならないのだが、この条件を離れて映画の劇的文学的本質を論じることは、恐らく映画を劇や文学に解消して了うことになりはしないかと考える。世界の現実を見聞きすると同様に
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