注意しなくてはならない。
観念論哲学であっても、云うまでもなく或る種の人々の或いは社会そのものの実際的な必要から呼び起されたものだ。それはその意味から見れば、現実の忠実な反映だということが出来る。処がそれにも拘らずその反映の仕方には一つとして動かすべからざる終局的な拠り処がない。自然科学ならば実験というものがあり数学ならば計算というものがあって、之によって銘々の人の銘々の理論が共通の尺度に従って試験出来るのだが、観念論には恰もそうしたものが欠けているのであって、この公共の尺度の代りになるものは、いつも主観的であることを免れない観念(想定・予想・空想・希望・欲求・など)に過ぎない。その結果、観念論の諸説は無拘束に分裂発散するのである。吾々の実際生活は、いつも社会に於ける物質的生産を基調としている。ここに吾々の生活の客観的な共同の尺度があるのである。処が観念論は殆んど総て、そうした生産が哲学に対して有つ意義を問題にしない。だからお互いに取り止めのない分裂に陥らざるを得ないのである。
併しそうは云っても、今日の観念論をその諸根本特色に従って、之をいくつかの群に分類することを妨げない。ただ
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