止まることが出来るならばだ。
処が実際には、決してただの心情に止まる宗教はないのである。個人の修養を標榜するように見える修養宗教も、実は忽ち社会的闘争からの脱却を説いたり、社会的不幸の正当化を説教したりせざるを得まい。そういうものに触れない抽象的な宗教的心情や信仰はあり得ないからだ。するとそこに必要なものは必ず、何かの思想体系[#「思想体系」に傍点]である。神学教義なのである。そしてその神学組織たるや、必ず例の神の国の秩序と地上の国の秩序との対立乃至交換というタイプにぞくするのである。そうでなければ、生きた社会科学的知識や文学的知恵の代りに、わざわざ「宗教的」な心情や信念や信仰は要らない筈だったのだ。
既成宗教の有っている習慣、それは歴史的に年の甲を経ていないと、大抵奇怪で野蛮でインチキに見えるものだが、そこに宗教的儀礼のセクト性や非社会性が見出されるので、多くの宗教擁護者は、これ以外の処に宗教の本質を見ようとする。そうすると勢い宗教的な情操か宗教的教理に、宗教の本質を求めざるを得ない。処が宗教的情操の方は、今云ったように、もしそのものに止まるならば社会的内容としては無内容なものだ
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