を代表するものではないと云った方がいいだろう。封建的・軍義的・官僚的なファッショ(日本型ファッショ)が直接の支配者である。だからもし、ブルジョア哲学なるものを、ブルジョアジー自身の、又は純然たるブルジョアジーの、哲学に限定して了うなら、日本に於けるブルジョア哲学は、極めて数が少ないか或いは極めて微力であるか、それとも全然今はないとさえ云っていいかも知れない程だ。では今日の多くの日本主義思想乃至哲学、東洋的神秘主義と見做されているもの、其の他等々はブルジョア哲学ではないのか。少なくともそういう日本ファッショ哲学乃至日本ファッショ的哲学は、このブルジョア制社会に於て、支配的なのだが、そういう支配的な哲学はブルジョア哲学ではないのか。ブルジョア哲学が、単純にブルジョアジーの哲学だと云って片づけられない所以である。
西田哲学がブルジョア哲学か、それとも封建的哲学であるか、という問題が出されたこともあるが、この設問はだから同じく誤っているのである。日本の多くのブルジョア哲学が封建的な関心なしにはブルジョア哲学になり得ないということが、大切な要点だ。つまり日本のブルジョア社会に於て、その政治的支
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