ゴシック体]

 併し、次の点はなお参考されねばならないのである。同じくインチキという一般的な評価に値いするにしても、例えば福音書的キリスト教と「生長の家」的宗教とでは、決して同一なものとして機械的に片づけられはしないだろう。生長の家が今後どういう「聖典」を伝承するか私の予断の限りではないが、その聖典振りとバイブルの聖典振りとの間には、確かに大きい距りがあるように見受けられることを、否定してはならぬ。私がそういうのも、谷口雅春の書くものは、通俗的な卑俗な友松円諦などのあり合わせの教養のつぎはぎとは違って、多少宗教的な鋭さを持っており(倉田百三やある場合の武者小路のタイプに近い)、多少キリスト的でさえあるからだが、例えばお筆先の類と聖書の含蓄ある部分とを較べて見れば、この区別はもっとよく判るだろう。
 之は文化的宗教と非文化的宗教の区別とか、教養ある宗教とか教養のない宗教との区別とか、というものとは別なのである。宗教哲学者が云う様な宗教的「真理内容」の上での区別だという風に云って了ってもいけない。まして一方は世界史的に承認された宗教であるに反して、他方はまだ出来立ての成り上り宗教に過ぎな
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