傍点]というものが之であって、之は地球の上で起きる現実的リアリティーの任意の部分(その選び方やカメラのアングルには実はすでに社会的・文学的・美術的・其の他の観点があるのだが)の再生に他ならない。何時幾日に何処で何が如何に起きたかを、或いは何かがどこかでいつかどのように起きたかを、再生するのが「実写」や「ニュース」の謂である。
実写やニュースは単にそれだけでも、私に映画の価値を尊重させるに充分だ。人はニュースなどに何の芸術的価値があるかと云うかも知れない、映画は一つの芸術たることが建前ではないかと云うかも知れない。映画は確かに芸術が建前だ。だがそう云うなら、ニュースは一体なぜ芸術的ではないのか、と私は云いたくなるのだ。私はかねがね新聞の社会面のニュースが、如何に文学的真理に乏しいかを悪んでいる者の一人だが、それはニュースが文学価値を有ち得るという想定に立つからこそである。ニュースが芸術的でないのは新聞社に雇われている記者達が記者として不充分だからで、少し乱暴な空想を許して貰えるならば、ホメロスでもつれて来ればニュースは立派に文学的になるだろう。と云うのは社会的眼光や心理的把握に於て、こ
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