いるという弊は、今日の中学校教育の当然の本質的な帰結であって、元来教育的な内容を持っていないものは受験準備の機能でも営む方が、まだしも増しなのである。
こう云って来ると、如何にも高等学校・専門学校以上の教育は、中等学校のと較べて、立派であるように聞えるが、決してそうではない。ただ教育の師範学校的観念は、低学級になればなる程意義をもっているので、小学校よりも中学校、中学校よりも高等学校乃至専門学校、それよりも大学という風に、段々師範的教育観念は無意味に帰するので、即ちそれだけ上学級になる程、学校的教育から被教育者の方が自由になって、社会的な自己教育に依存して来るのである。だから、学校的教育の弊害や悪作用は、高等教育に進むにつれて段々薄くなる、というわけだ。――だがそれにも拘らず、生徒や学生の社会的自己教育を、出来る限り妨害して、学校教育(夫は結局師範教育を典型とする)の独占に帰せしめようとするのが、今日の高等教育の方針なのである。無論どんなバカげた方針に基く教育でも、それが強制するイデオロギーの媒介物になる客観的な実質のあるものは、曲りなりにも教育され教え込まれるから、本来の意義に於
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