分が籍を置いている大学の実質が悪くても善くても、とに角その大学は自分[#「自分」に傍点]の大学なのである。自分をこの利益社会の一員と考えるのである。処でこういう利益団体としての私大が成立するのは、単に大学企業自身が利益があるからだけではない、実はこの営業自身が実際社会に於ける何等かの利益地盤に相応しているからなのである。
 之は帝大出の「学士様」がかつて官吏就職という立身出世の利益地盤をあてにしたのと変らないが、併し帝大は営業の形を取らずに国家財政の方針を回り道にして来るから、私大程活発には実際社会の昨日今日の利害関係に影響されない。私大では商売にならないような学科や講座でも、帝大ではある時期迄は保存される。――でこう考えて来ると、矢張り私大よりも帝大の方が、まだ多少学問的な自由の可能性の余地があるかも知れない、という差違が発見されるのである。ただその所謂学問の自由[#「学問の自由」に傍点]ということの意味が、更に厄介な問題なのだが。

   二 学職ギルドとしての大学[#この行はゴシック体]

 大学のUniversitat[#Universitatのaにウムラウト(¨)]なるものは
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