ての道徳観念が悉されるのではない。道徳が問題になるのはいつも自分というものの日常行動思想が課題になるからだ。他人の行動ばかりを問題にしたがる日本人的お節介道徳は道徳ではなくて寧ろ反道徳だろうが、併しそういう出来損い現象も、つまりわが身に引きくらべて他人の身の上をとや角云うのである。一つの自己弁解である。――そうすると道徳の観念も単に社会科学だけでは片づかないものがあるということになって来る。なぜなら社会科学では個人というものや個人の個性やを論じることはカテゴリー上常に可能だが、併しそのままでは、銘々の自分の我性に基く活動を論じるのに足りない点がある。この我性という銘々の自分の一身上の課題を解き得るような立場[#「立場」に傍点]に立つことによって初めて、道徳の最後の科学的・哲学的・観念が得られると思うが、処がこうした立場は恰も文学する立場なのだから、私は之を文学的な道徳観念と呼ぶことにした。之が第四の観念である。所謂モラル[#「モラル」に傍点]とは之でなければならぬのだ。
 併し私の主張したいもう一つの要点は、この文学的な道徳観念と社会科学的道徳観念との結合[#「結合」に傍点]の問題なの
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