える機関であることを完全に止め、而も学生の社会的意義に何等採るべき積極性がなくなった時に、学生がクサるのは当り前のことだ。七八年前の学生は必ずしもサラリーマンの候補者ではなかった。少なくとも自信のある学生は自分の未来にもう少し自由な活動分野を空想することが出来た。そこには創意を充たすだろうような理想を空想することが出来た。今では夫がないのだ。学生生活はサラリーマン生活の予備校に過ぎなくなった。学生の文化的役割さえが、可なりの部分サラリーマンへ移行していることを見落してはならぬ。
だが云って見れば学生のこの予備校的存在は、当然と云えば当然なようなものである。社会秩序の変動が眼の前にブラ下っているように思われた時には、予備校的存在はただの予習期のものではなくて、新興の要素であり得るわけだが、一応その秩序変動が眼の前から一定の距離を距てたように感じられる時期になると、予備的存在は要するに予備校的存在に戻るわけで、旧秩序へ編入される前の予習期にならざるを得ないのである。尤も与えられたこの秩序自身に何か期待が持てるのなら(明治大正中期頃迄のように)、予習期には予習期らしい意義と張りがあるのだが
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