だが、とに角青年はその自然の青年らしさを失っているから、そしてそれを失っているということに気付いてさえいないらしいから、之を教えてやろうという、親切な壮年や老年者は少なくないようだ。
併し之は全く妙な現象と云わねばならぬ。青年らしいのはその自然的に条件づけられた(否之も亦実は社会的条件なのではあるが、併しその社会そのものが自然に出来ている場合のことである)認識不足にあった筈だが、処が現代の青年は、その認識不足を失いかけたと云って、その認識不足を取り戻せと云って、説教されるのである。青年は青年らしくなくなった。即ち社会的認識が備わり過ぎた、と云って非難するらしいこの壮年者や老年者は、いまだに青年の夢を自分の内に許せると思っている認識不足の主だというようになるようだ。
なる程現代青年の社会認識の過剰らしいものは、社会科学的認識の過剰でもあるし又他方に於て就職戦術的認識の過剰でもある。二つは氷炭相容れないものだが、併しそのどちらかに態度を決定しなければならないというのが、現代青年の宿命なのである。壮年者以上の者はそんな態度の決定などを現在必要としないばかりでなく、自分の過去の青年時代にも
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