点](徳川期を見よ)をやったのだ。そこから文芸は文学というような文献学と同じ名前に満足するのだろう。処でこういう文献学位い教養と紛らわしいものはない。なる程古典的文献に習熟していなければ、文化の歴史的発展が頭に這入らないから、物の理解は伸びない。その限り文献学は教養の不可欠の第一課だが、併し文献学者はまだ何等の思想家でもないのだ。仏教学者や古典学者が思想的に如何に「馬鹿」であるかを見ればよい。教養は何のために必要かというと、他ならぬ思想の展開深化のためにこそ必要なのだ。もしそうでなかったら、文芸学者ならぬ作家という専門的職業人に、何んだって教養などが要る筈があろう。
 文献学の場合でも判る通り、知識はかならずしも教養の本質ではない。自然の科学の知識にしてもそうだ。併し知識のない処に正常な思想は絶対にあり得ないわけだから、思想を促進する知識(そうでない知識は勿論知識でも何でもないのだったが)は教養の本質の一部だ。思想を促進する知識は既得の知識ばかりではなく知識を求める関心[#「関心」に傍点]の正しさと広さを要求する。教養のバロメーターは、その人が如何なる関心を持つかにあるだろう。
 知識
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