の充実と広さ、関心(それは特に社会的関心だ)の正鵠と広さ、之が一方に於て心情や感能の鋭敏的確を産むと共に、思想体系の代謝機能のもつ博大な活発さを生むものなのである。ここで初めて教養は、詩人(但し行を何遍も変えて原稿を書く作家の一種のジャンルのことではない)と思想家とをもたらすのである。作家がこうした詩人と思想家でなければならぬことは、云うまでもないことだ。作家はそれであればこそ大衆のための社会的認識を委任されているのだ。
処で実際を見ると、作家の多くのものは決して詩人としても思想家としても優れてはいない。詩人は例えば言葉に秀でている筈だろう。尤も言葉に徒に潔癖なばかりが詩人の能ではなくて、社会の大衆が用いている日常の言葉の本当のよい理解者であり深長広範な語義の創造者であることが、教養としての「詩」だろうと思う。こういう意味で言葉の天才は、一言一言考えたり云い直したりしてつかえつかえ講義をしたヘーゲルなどで、ヘーゲルの「範疇」というのは之だ。併し日本の作家で、そういう教養の含蓄のある言葉や範疇を持っている者が何人いるだろうか。韻文作家としての所謂詩人は、言葉に対して単に神経過敏だという
前へ
次へ
全451ページ中206ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング