高い教養の社会的発達に対して、恐らく、単にギルド的な排他意識しか持つことが出来まい。かくて大学生は常に教養があり、民衆は常に無教養だ、というようなことにならざるを得ないだろう。
 だが私は今日、新しい型の教養を待ち受ける処は、民衆の内以外にはないと思っている。教養とは何かはまだ判らないのだが、とに角従来の教養の本質的な変更蝉脱なしには、吾々は真の教養を得ることは出来ないだろう。今日の教養やビルドゥングは吾々に必要な新しい意味での教養を与えることが出来ない。事実今日のブルジョア教養は、教養としては社会的信用を失いつつあるのであり、又従来の意味での教養の程度さえが、どうやら一般には低下して来たようだ。教養の崩壊が教養観念の入れ代えを要望している。

 では新しい意味での教養は何かということになるが、それより先にまず教養は一般的に云ってどう考えておくべきであるか。処でさし当り便宜な方法は、教養の欠乏か無教養の特色を指摘して見ることだろう。どういう徴候によって教養の欠乏又は無教養を吾々は決定し得るか、又してもいるか。一二の徴候を挙げて見ると、第一に関心・興味の範囲の狭小ということである。関心や
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