合教育というのは他ならぬ知識のたたき込みという意味だから、教養は結局知識の堆積ということになるわけである。
勿論教育乃至学校教育をこういう知識のたたき込みと考えることは、教育学的に云えば途方もなく間違った俗見なのだろうが、併し教育を素質の誘発とか人格の陶冶とかと考える教育学そのものが必ずしも卑俗でないものではないだけに、教育が知識の注入だという観念にも一応の真理はないとは云えない。知識の注入の欠乏は教育の欠乏を結果し、やがて夫が教養の欠乏を来すということは忘れられてはならぬ。ただ問題は教養のために必要な知識のコンビネーションの如何であり、教育に於ける必要な知識のセットの如何である。――処で高等教育理論は教育に於ける必要な知識のセットをビルドゥング[#「ビルドゥング」に傍点]と呼んでいる。学校とは区別された大学なるものの教育が、このビルドゥングだと、ドイツの伝統的な哲学的教育家や教育理論家や又一連の大学論者達は考える。ビルドゥングはもはやよく聞く例の人格[#「人格」に傍点]の陶冶というものとは同じでない。なぜならこの場合の人格という教育家的観念は、つまり知育とかいうものから区別された徳
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