だ。だがその社会的・政治的・機能自身が純文化的だというのである。――さて啓蒙が、反動的文化社会による反動教育や又悪宣伝(デマゴギー)に対立するのは、今云ったこの第一の方の特色に帰着するのであるし、更に啓蒙が一般に宣伝(デマゴギーさえ含めてもよいが)から区別されるのは、この第二の方の特色によってである。
 こうしてさし当りの規定を指摘して見ると、現代の日本に於て如何に啓蒙活動が本質的に欠けているか、又それに就いての観念が如何に分散的であるか、そしてそれにも拘らず今日、啓蒙活動がどれ程欠くべからざる或る必要に迫られているかということは、自然と気のつく処だろう。

 この二つの規定を多少展開して見る前に、啓蒙(ドイツ語のAufklarung[#Aufklarungのaにウムラウト(¨)]に相当する言葉)という概念を少し検討して見る必要があるようである。啓蒙という日本語には特別に哲学的規定は含まれていなかったらしく、単に文明開化啓蒙と云った調子に、明治の初期に使い慣れたものであろうと思うが(深間内基『啓蒙修身録』・藤井三郎『啓蒙雑記』・条野伝平『啓蒙地理略』・の如き)、併し明治初年のこの時期は
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