学の様式である以上、之は正に最も論理的な文学的批評だということになる。それは文学としてのクリティカルな(且つペリオディカルな)エッセイということである。
この論理はしかしただの論理ではない、モラルの一契機としての論理である。そして心理とあざなわれた論理だ。一般に評論は多少とも夫をもっているが、特に社会評論がもっている風刺的性質やパラドックシカルな特色は、ここから来るのである。つまり社会のアクチュアリティーが有つ特有なリアリティーが、モラリスティックに反映される必然の結果がそうなのだ。
それから導かれる社会時評の文学的特色は、第二に思想体系[#「思想体系」に傍点]がそこに著しく透けて見えるということだ。豊島与志雄の或る文芸時評によると、思想家や理論家の世界はいくらでも書き入れることの出来る地図であり、いくらでも家具を備えつけることの出来る室だという。そうかも知れない。しかしそういうことが果して氏の云っているように常識[#「常識」に傍点]というものになるだろうか、また、文学は恰もそういう常識に安住しようとしないところのものだ、ということになるらしいのは、どうしたものだろうか。私は論理と
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