ある。
かつて横光利一は文芸評論家を論理的なグループと心理的なグループとに分けていた。心理的な批評家を小林秀雄達とするのは一応判るが、心理と論理との間を飛びまわる批評家を青野季吉と大森義太郎とだとするのはよく判らない。第一正にこの点で青野と大森との間には大きな距りがあるからだ。大森義太郎は論理組に這入るのではないかと思う。処がその論理組は誰かというと、谷川徹三・三木清・それに岡邦雄や私だという。併し今の論点から見て、谷川と岡との間には又可なり大きな距りがある。大森と谷川では殆んど他人のようなものだ。で横光の例の区別は結局単に文壇の内と外というようなことが動機になっているのではないかと思うので、そうでないと好く判らない分析だ。
或る匿名批評家は論理的と心理的とのこの区別を、社会的観念の這入る這入らないの区別だと見ていたが、横光自身の区別についての理解としてそう都合好くは行かぬと思う。併し私に云わせれば、今の場合結局それ以外に心理と論理との区別はあり得ないだろうと考える。――でこういう意味に於て、社会時評は他ならぬ最も論理的[#「論理的」に傍点]な評論であり、そして評論が一般に一つの文
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