点](徳川期を見よ)をやったのだ。そこから文芸は文学というような文献学と同じ名前に満足するのだろう。処でこういう文献学位い教養と紛らわしいものはない。なる程古典的文献に習熟していなければ、文化の歴史的発展が頭に這入らないから、物の理解は伸びない。その限り文献学は教養の不可欠の第一課だが、併し文献学者はまだ何等の思想家でもないのだ。仏教学者や古典学者が思想的に如何に「馬鹿」であるかを見ればよい。教養は何のために必要かというと、他ならぬ思想の展開深化のためにこそ必要なのだ。もしそうでなかったら、文芸学者ならぬ作家という専門的職業人に、何んだって教養などが要る筈があろう。
 文献学の場合でも判る通り、知識はかならずしも教養の本質ではない。自然の科学の知識にしてもそうだ。併し知識のない処に正常な思想は絶対にあり得ないわけだから、思想を促進する知識(そうでない知識は勿論知識でも何でもないのだったが)は教養の本質の一部だ。思想を促進する知識は既得の知識ばかりではなく知識を求める関心[#「関心」に傍点]の正しさと広さを要求する。教養のバロメーターは、その人が如何なる関心を持つかにあるだろう。
 知識の充実と広さ、関心(それは特に社会的関心だ)の正鵠と広さ、之が一方に於て心情や感能の鋭敏的確を産むと共に、思想体系の代謝機能のもつ博大な活発さを生むものなのである。ここで初めて教養は、詩人(但し行を何遍も変えて原稿を書く作家の一種のジャンルのことではない)と思想家とをもたらすのである。作家がこうした詩人と思想家でなければならぬことは、云うまでもないことだ。作家はそれであればこそ大衆のための社会的認識を委任されているのだ。
 処で実際を見ると、作家の多くのものは決して詩人としても思想家としても優れてはいない。詩人は例えば言葉に秀でている筈だろう。尤も言葉に徒に潔癖なばかりが詩人の能ではなくて、社会の大衆が用いている日常の言葉の本当のよい理解者であり深長広範な語義の創造者であることが、教養としての「詩」だろうと思う。こういう意味で言葉の天才は、一言一言考えたり云い直したりしてつかえつかえ講義をしたヘーゲルなどで、ヘーゲルの「範疇」というのは之だ。併し日本の作家で、そういう教養の含蓄のある言葉や範疇を持っている者が何人いるだろうか。韻文作家としての所謂詩人は、言葉に対して単に神経過敏だというだけで社会的には却って鈍感であるか(萩原朔太郎氏の如き)、それでなければ徒に言葉に熱中して了って、本当に言葉を使いこなしていない。言葉を思想の範疇として使いこなす筈の作家(それは彼等の評論や時評に於て端的に現われる筈の現象だが)ほど、言葉即ち観念を出鱈目に、常識的に、便宜的に、浅墓に、而も朋党的に使っているものは少ない。ブルジョア作家は特にそうだ。彼等は一定の言葉=観念=カテゴリーが、文壇という文化的一地方で使われていると同時に、哲学でどう用いられ、社会的にはどういう連関に於て役立っているか、を真面目には考えてみない。こうして、作家の実際性と客観性とは、世間の日向に出ると露のように消えて了うのである。日本のブルジョア作家が、就中社会現象の文学的評論乃至時評に於て無能であることは、著しい。こうした文学的方言[#「文学的方言」に傍点]は教養の狭さと低さとの徴しであり、文学的・詩的・透察の凡庸さと、関心と知識との貧弱を意味するが、それというのも、作家の職業的専門家としてのマイナスな宿命から来るのは云うまでもない。日本の作家の思想性の貧困と云われることにも、色々吟味した上でないとハッキリしない点はあると思うが、少なくともこうしたことが、思想の欠落ということの一つの内容なのである。
 作家の教養の問題は、作家という職業的専門家にとっての鞭である。この鞭を欠く時、作家が専門家的な偏狭と職業的な卑しさに堕することを防ぐものは、もはや存在しない。ただの自意識や魂の逞ましさや、アンチ・ジャーナリズムなどでは追いつかないのである。作家には博大深長な「常識」と新鮮鋭利な社会的認識[#「認識」に傍点]とが必要なのだ。社会は、本当に文学を生活の必需品としている処の、生活のある大衆は、実はひそかにそれを作家に要求しているのだ。大衆は作家から気焔やゴシップではなく、真実の思想を聞きたいのだ。で教養は特に作家の社会的義務だ。いやそれは職業的な義務なのだ。但し、女形的な「たしなみ」というような歪められた躾けではなくて、最も普遍性をもった堂々たる職業的訓練なのだ。――処で作家は、之を妨げるものを衷心憎むことを知らねばなるまい。作家の真の教養を阻み、人間の真実の思想を圧えつけるものを。実際の要点は結局ここにある。この要点に就いて真実を欠いているものには、教養も思想も何もかも本当は無駄な話しなのだ。
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