意識の側に於ける制度習得感にいつも随伴する。するとこの場合の風俗は明らかに上部構造としてのイデオロギーの一部にぞくすると云わねばならぬ。
だからつまり、風俗乃至習俗というものは、本当は社会の本質の一所産であり一結論に過ぎぬにも拘らず、それが社会の本質的な構造の夫々の段階や部分に、いつも衣服のように纏わって随伴している現象のことなのである。従って社会の構造全般に跨って現象している或るものだという風にも之を考え得るので、夫が何か独自の独立した社会的本質の一つででもあるように考えられ易いわけだ。風俗は経済現象でもなければ政治現象でもなく又文化現象でもない。而もそうした諸現象を一括すべく用いられる処の社会現象[#「社会現象」に傍点]という言葉は、風俗にとっては打ってつけではないだろうか。つまり経済現象・政治現象・文化現象・等々という社会の物質構造上の段階と関係なく、そういうものを無視しても、そうした諸段階全般を貫く或る共通な一般的な一つの「社会現象」が風俗だ、というような風に考えられ易いのだ。
社会学(ブルジョア社会科学の代表者)には大体に於て、社会が実際にこうした共通な一般的なファクターから云わば出来上っているものだという風に、仮定する癖がある。社会機構に於ける物的構造上の秩序を第一義的な分析の規準とはしないで、いきなり社会の之あれの一般共通な徴候・現象をとり出して、之が何か社会の本質的な諸要素ででもあるように考える。風俗はこういう社会学的方法によれば一等通俗的に簡単につかみ易いように見えるだろう(その極端なものは「モデルノロジオ」の類だ)。之に反して史的唯物論の方法から行くと、風俗という現象は方法上一種の副次的操作を要する処の却って高度な複雑な現象なのだ。――だがそう云うことは決して、風俗を社会学的(現象主義的)に安易に取り上げる仕方が正しいということにもならず、まして史的唯物論の方法によって風俗という題材の解決がつきにくくなるだろうということをも意味しない。元来、現象なるものは直接なもので直覚的には簡単なものだ。だが、夫は分析の上からは最後になって出て来なければならない程複雑なものなのだ。
処で実際問題として見ると、ブルジョア社会学に於ても(日本では空疎な方法論がまだ盛んなようなわけで)、風俗というものはあまり「科学的」なテーマにされていない、恐らく之はあまり理
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