ぎぬ)の遺産などは問題にされない理由も、之だ。
道徳という問題が、文学そのものの成立にとって、如何にのっぴきならぬキーポイントをなすかが、すでに略々見当がつくだろうと思う。ただの一時の文学現象についての話題ではないのだ。
四[#「四」はゴシック体]
文学的認識[#「文学的認識」に傍点]に於ける道徳の役割は、では何であるか。だがその説明は到底ここでは果せない。前に云った『道徳論』の本にでも譲る他ない。併し少なくとも次のような点は、それ程突飛な思想ではないだろう。
まず道徳(文学的カテゴリーとしての道徳)は自分[#「自分」に傍点](自己・自我・自覚=自意識)を離れてはない。対象が道徳的[#「的」に傍点]に(というのは即ち文学的[#「的」に傍点]にということになるわけだが)、問題になる場合は、無論その対象が作家又は作家に従った読者の眼を以て見られることだが、その際の作家は、彼が大衆的で普遍的な眼を持っていればいる程、益々彼はユニックな「自分」であり「私」である。
之は誰でも知り切っていることだが、そういう私・自分は、科学的認識に於ては口を利かない。口を利けば却って単にその認識を主観的にし狭めるだけで、少しも之をユニックにしたり深めたりはしない。で、自分を出しながら主観的に堕さないということが出来るのが、道徳というものの特色なのだ。道徳は一身上[#「一身上」に傍点]のことであると共に、又決して私事ではないのだ。
併し道徳の此の「私」的性質は、一切の意味での自己中心主義や主観主義とは関係がない。道徳が「私」的であるからと云って、私道徳や身辺道徳が道徳だということにはならぬ。なる程私というものが道徳的であるのだが、自分を何んによらず中心にすることは決して道徳的ではあり得まい。
文学的認識に於ては、だから道徳は(「私」なるカテゴリーもそうだ)この認識のために必要な立場か足場であり又は認識のメジゥムなのである。文学的認識のあれ之という成果が道徳なのではなくて、そういう成果を道徳的たらしめるような媒質が、道徳というカテゴリーの示すものだ。――そして仮にこういう立場か足場か媒質かをそれだけとして抽象的に存在するように想定して見ると、昔からイデーと云われて来たものの性質になるので、科学的真理とか善とかいう類のものとなるのだが、道徳をそう考えれば、道徳は丁度科学的真理
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