悪いからというわけではない。一般に時評の性質を欠いた評論は決して完全なものとは考えられないのであり、そして文芸評論も時評である以上、月評になるのはそんなに特別な制限でも何でもないと私は思っている。要は矢張り、これまでの文芸時評において文学の社会性・大衆性・思想性・といった一連の要求が意識的に注意を払われることが少なかったという不満にあるので、それで月評という様式そのものが不可ないのだという風な混乱にも陥ったのだろう。
 そこで、文芸時評も社会時評も、また論壇時評も、実は一つのようなものであっていい、というような見方が段々起きて来つつあるのではないだろうか。私は文学と社会時評との本質上の連絡を強調するものであるが(「風俗文学としての社会時評」)、この主張からすれば、文芸時評だって社会時評や論壇時評と大して別なジャンルのものではないということになる。――この頃は論壇時評というものが多少軽んじられて来たようだ。これと共に起きた動きが文芸時評改組問題だと見れば、面白いと思う。
 こういう何か新しい文芸時評の型が出来て行くとすれば、その文芸時評にとって一番都合のよい対手は、直接時事問題を取り扱った作品だろう。ところが事実、そういう性質の作品が注目を惹きつつあるのである。岸田国士はこの間「風俗時評」という題の作品を発表した。焦点[#「焦点」は底本では「集点」となっている]にやや疑問を持つところのその内容よりも、この名前に私は好意を持った。ところが新聞では早速「風俗時評欄」を設けたし、新居格は本当の(?)「風俗時評」を試みている(『新潮』三六年七月「現代風俗時評」)。

   二 軽風俗と重風俗[#この行はゴシック体]

 無論新居格の「現代風俗時評」は文学作品ではない。無論その心算でもない。単に街頭のスナップだ。だが、とに角これを見ていて、少なくとも風俗時評という言葉が文学的な響きを持って来たなという判断の合図を感じる。岸田国士の「風俗時評」は何かと一種の社会的判断をいい現わしている。これはいうまでもなく文学作品としてだ。――でこれから見ると、風俗の意義にも二つあって、女のメーキャップから戒厳令にまで及んでいるわけだ。だが風俗については後で述べよう。
 時事的な作品としてセンセーショナルな興味を惹く予算になっていたらしいのは、『中央公論』(三六年七月)付録「日出づる国」である。
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