スクリーンの上で見聞出来るということが、それだけの単純な判り切ったことが、映画固有の面白さを与えるらしい、という結論なのだ。映画の劇的機能や文学的価値については今論じることはひかえる。また観照者の立場を離れて映画製作の技術的・経済的・社会的・諸条件を省ることも私には今は不可能だ。これ等の観点を離れても、映画の大衆性を或る程度まで説明出来るように思う。
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 3 文芸と風俗

   一 文芸時評の改組[#この行はゴシック体]

 読者も御承知のように、最近、新聞雑誌その他における文学批評の形式というのが、やかましく議論されている。しばらく前には局外批評が善いか悪いか、それから又匿名批評が善いか、悪いか、がお喋りの流行(?)だった。全く「善いか悪いか」が喋られたので、「何であるか」が喋られたのではない。つまりそれほど子供らしくまた道徳屋的に喋られたわけだ。
 しかしこのお喋りはただのお喋りとして片づけることの出来ないものを持っていた。なぜなら問題は専ら文学がどうやったら広い世間へ出られるかということだ。或いは、いわば女子供向きの所謂文学なるものを、どうしたら世間の大人にとっても必要なものにすることが出来るか、ということだ。少し語弊はあるが、そういえば端的だと思う。
 やがて批評形式の論議は一転して、文芸時評の形式をどうしようかということにもなって来た。これも大部分はお喋りみたいに見えるのだけれども、併し矢張り、どうやったらば文学という温室産のモヤシを社会の汐風に耐え得るものにするか、という興味が根本動因をなしている。文芸時評は専門家の楽屋のぞき的な作品批評や作家批評ではなく、読者に作品や作家の社会的意義を紹介するような大衆的な形でなくてはならぬとか、文学の色々な現象が持つ文学外的な又は文学前的な思想や社会性を摘発するような形の時評にしなければならぬとか、色々にいわれている。
 と同時に、文芸時評の時評[#「時評」に傍点](即ち月評[#「月評」に傍点])という形式もまた段々疑問にされるようになって来た。それというのもこれまでの月評は月々の雑誌に現われる作品についての所謂「作品評」(あの作品は感心した、あの作品は説話体だ。あの作品は化物と格闘している、等々という所謂作品批評[#「作品批評」に傍点]?)に過ぎなかったということへの不満からで、必ずしも月評という様式が
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