注意しなくてはならない。
観念論哲学であっても、云うまでもなく或る種の人々の或いは社会そのものの実際的な必要から呼び起されたものだ。それはその意味から見れば、現実の忠実な反映だということが出来る。処がそれにも拘らずその反映の仕方には一つとして動かすべからざる終局的な拠り処がない。自然科学ならば実験というものがあり数学ならば計算というものがあって、之によって銘々の人の銘々の理論が共通の尺度に従って試験出来るのだが、観念論には恰もそうしたものが欠けているのであって、この公共の尺度の代りになるものは、いつも主観的であることを免れない観念(想定・予想・空想・希望・欲求・など)に過ぎない。その結果、観念論の諸説は無拘束に分裂発散するのである。吾々の実際生活は、いつも社会に於ける物質的生産を基調としている。ここに吾々の生活の客観的な共同の尺度があるのである。処が観念論は殆んど総て、そうした生産が哲学に対して有つ意義を問題にしない。だからお互いに取り止めのない分裂に陥らざるを得ないのである。
併しそうは云っても、今日の観念論をその諸根本特色に従って、之をいくつかの群に分類することを妨げない。ただこの分類をするにも、少なくともブルジョア諸国の夫々の国情の特色に従って、別々に工夫しなければならぬということは、先に云った観念論の宿命の致す処である。その結果今日の夫々の国家は大体その国にだけ伝統的な又支配的な哲学を持っているのであって、例えばイギリスの経験論とかドイツのドイツ的観念論とかフランスの直覚主義とかアメリカの実用主義とかがその例であるが、処が日本になると、単にそうした伝統的乃至支配的な哲学が無いばかりでなく、又全く別個に日本乃至東洋独特の哲学思想が醸成されている結果、観念論哲学の分布図は乱雑の極に達している。
そればかりではない。現今の日本は、各種の哲学が陰に陽に、又知ると知らぬと関係なく、政治上の力を持つものとして、盛んに利用されているために、社会層の政治的役割の差に応じて、各種観念論の間の差は可なり踏み越え難い形になって残されている。又それだけではない。哲学らしい名のついた哲学は欧州から輸入されて以来まだ半世紀しか経たないため、日本のブルジョア社会の常識とこの「哲学」とのかけ隔てが大き過ぎて、哲学の紹介機関としての役割を引き受けた日本のアカデミー哲学は、殆んど全くブル
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