ずしも物理学や化学でいう物質の概念のことではない)で考えられるものが根本的な実在だとする哲学的な立場のことで、之に反して観念論というのは観念という哲学的[#「哲学的」に傍点]概念(必ずしも心理学でいう観念や心や精神やの概念とは同じでない)で考えられるものが根本的な存在だとする哲学的な立場のことで、このように二つの対立は根本的なのだ。
之は根本的な区別なのだから、二つの哲学の立場は交々又対抗しつつ哲学史又は思想史の上で消長して今日に至っている。唯物論の側から云えば、ギリシア哲学の前期(ソクラテス以前)や十七・八世紀の英仏の哲学などがその適例であるが、観念論が変遷又は進歩して来たように、唯物論も亦変遷又は進歩して今日に至っている。処が今日ほど両者の対抗が著しい時代はないのだ。それは他の原因からではないので、唯物論と観念論とが今日の著しい階級対抗の分野に従って、二つの陣営にハッキリと分れたからである。後者はブルジョアジーの、又はブルジョアジーが支配している社会に於て公認された、哲学であり、前者は之に対して、無産者階級の、又は無産者階級が支配する社会に於て一般的に受け容れられる、哲学なのである。
処で最初私は、哲学に就いてはその所説に殆んど一致したものを見出さないように云ったが、併し少なくとも今日の唯物論(弁証法的唯物論)は、国際的に云ってさえ、人々の間に積極的な共同のコースが横たわっているという意味で、客観的な一致を有っているのである。処が今日の観念論相互の間ほど、差異や食い違いや無関係状態が甚だしいものを見ない。
無論仮にも学問的な形を取る以上、どんな哲学でもいつも研究の途上にあるものだから、そこから当然、或る程度の出入りや交錯は避け難い。之をさえ均して了おうとすれば、研究上のテーマの積極性というものは失われるに相違ない。だが何と云っても今日の観念論の陣営の内部の乱麻のような混乱は甚だし過ぎる。――この現象は一つには確かに、観念論の伝統の系統が複雑であることに由来している。夫があまりに複雑であるために、今日に至るまでにそれの整理される余裕がなかったばかりでなく、今日では無理にそれが繊細化される必要に迫られた結果、益々多岐に分れて拾収出来なくなったのに由来している。だがこの伝統の複雑さ自身は何に原因しているかと云えば、それは観念論そのものの根本性質から来ていることを
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