でなくてはならなかった。仏教という封建的な思想上の伝統を持つ日本においては、この半封建的観念への模索は、一見、何よりも仏教復興[#「仏教復興」に傍点]として、或いは寧ろ仏教への模索として、現われる理由がある。之が宗教復興の俗衆的[#「俗衆的」に傍点]な場合である。即ち比較的知能の低い社会大衆は、仏教と云う旧文化財に何か未知の尊いものがあるように思ったり、又あることを知っているような顔をしたりするのである。
この型の仏教復興は併し、資本家的イデオロギー自身が頽廃変質して生じた、例えばドイツ哲学の最近の動向に於て見られるような、哲学その他に於ける神学復興[#「神学復興」に傍点]、と無論一つではない。仏教復興の方は、小市民的インテリジェンスからは縁遠いブルジョアや小市民や、又農民労働者の一部分を、相手にしているのである。だが、日本の小市民的インテリゲンチャの代表的な或る分子に於ては、仏教復興よりも先に、今云ったかの神学復興の方が著しく見られるのである。ここでは仏教復興も社会大衆的な宗教復興としてではなく単に神学復興の一つの場合として現われている。哲学の合理的脊柱の喪失、実証的科学への不信が、小ブルジョア・インテリの思想組織を駆って、超実際的なものへ、神秘と形而上学とへ、赴かせる。之が神学復興だ。之が宗教復興の小市民インテリ的形態で、高級ジャーナリズムに於ける宗教復興の現象をなす所のものなのである。
民間宗教(之は往々民間治療と密接に結びついているのだが)が盛んになって来つつあるという現象は、所謂宗教復興[#「宗教復興」に傍点]とは少し異った場合である。なぜなら宗教復興というものは実は、ジャーナリズムに現われそうな一現象を、ジャーナリスト達がそう名づけたものに他ならないからで、そしてそこに、所謂宗教復興とジャーナリズムとの、切っても切れない連関があるのだから。
だが、下級高級のジャーナリズムにおける仏教復興や神学復興も、又ジャーナリズムと必ずしも直接関係のない民間諸宗教の盛大も、ジャーナリズムを含めて一切の日本社会機構に溢れる日本民族宗教の復興[#「日本民族宗教の復興」に傍点]・台頭[#「台頭」に傍点]・に較べたならば、殆んど問題ではない程小さな意味しか持たない現象だ、ということに注目しなければならない。この根本現象さえなかったら、世界的宗教の儀礼に慣れぬ日本などに於
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