れがインチキであることによって忽ち宗教となる、というわけだ。生長の家が出版企業と宗教とを結びつけたがゆえに初めてインチキ宗教になった、のではない証拠には、たとえば出版企業と出版報国とを結びつけてもその報国活動がインチキにならぬことを見ればいい。
さてこの辺から、少なくとも宗教のインチキ性が何かということがわかりかけて来る。インチキに見えるのは、その荒唐無稽な精神主義、その意味における迷信[#「迷信」に傍点]と、その迷信が何かの条件で社会的な価値として通用[#「通用」に傍点]しているという点とにあったのである。だが宗教的迷信に正信[#「正信」に傍点]を対立させ、真理[#「真理」に傍点]を押し立てるらしい友松円諦氏等の「真理運動」派は、果して荒唐無稽な精神主義ではないのか。なるほどこれは、自然科学の成果を無視しないどころでなく、大いに尊重して見せるという点において、即ちそれを上手に問題圏外におくという点において、「ひとのみち」や「生長の家」の反自然科学的迷信に較べると確かに「真理」だろう。だが、社会の真理化[#「真理化」に傍点]――これはつまり精神による真理活動のことだ――によって、一切の社会的矛盾や困難が解決されると称するのは、荒唐無稽の精神主義でなくて何か。これも一つの新しいタイプを浮き彫りにした悪質な迷信なのだが、この迷信が社会的に見て従来のものより尤もらしく信用されて通用するらしく見えるのは、たまたま現代社会人の圧倒的矛盾感と社会常識における社会科学的認識の未熟という、弱点に乗じているからにすぎぬ。この点、いわゆる邪教が自然科学的無知や病気や個人的不幸の弱点に乗ずるのと、本質において少しも変らないのである。だから、最も常識的でスマートらしい真理運動さえが、宗教(=精神主義)であることによって、忽ちインチキ宗教の実質を受け取る。宗教のインチキ性が、宗教そのものの本質に他ならぬことはこれでわかろう。――で少なくとも宗教のインチキ性の方は、これでわかった。
だが宗教の健全性・健全な宗教・の方はどうなったか。しかし宗教の本質が邪教であるなら、健全な宗教などというものは無意味にならざるを得ない。インチキ宗教と健全な宗教との区別などは、本質的には意味がないということになる。まあ精々、文学的な価値からでも区別する他はあるまい。例えばバイブルやお経は非常に立派な文学的遺産だ
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