に角文部省にとっては、というのは一般に支配社会にとってはということになるが、宗教は必要なのだ。ただ文部省にとっては宗教を無条件に運用するのにその建前からいっても、先の信教自由は別としても、いくつかの障碍が横たわっている。その一つは明治初年以来の政教分離に基く学校における宗教教育の禁止だ。そこで困った文部省は、先般、或る口実を設けることによって、学校における宗教教育を許可し、または寧ろ奨励することにしたのである。というのは、学校において禁止すべきものは宗教教育ではなくて宗派[#「宗派」に傍点]教育である、宗教教育は宗派教育を離れて行なわれるべきだという解釈だ。ところが宗教はすべてまたいつの世でも宗派や教団から離れてはないのだから(宗教団体法によって宗教取締と宗教奨励とを企てる文部省は実はこのことを一等よく知っているはずだ)、これを超越した宗教というと、つまり宗教的情操[#「宗教的情操」に傍点]というものになる。実際文部省は各学校に向かって宗教情操教育を施せと命じているらしい。ところがこの宗教的情操なるものくらい訳のわからないものはないので、第一各宗派に共通なようなものは、到底具体的な宗教的情操ではないから、従ってつまりはこれは宗教的情操ではないということになる。そこで、この宗教的情操は、教育勅語と一致する限りの内容にほかならぬ、という解釈を文部省は採用することにしたらしい。
 しかしこれでは宗教的情操などという名目は無用の長物だったわけで、教育は従来通り、教育勅語一つで立派に遂行され得るはずなのだ。何のために宗教を回り道したか訳がわからぬ。だから、宗教的情操というものに、宗教の健全性を求めても、教育の健全性は見つかるかも知れぬが、宗教の方の健全性はどこにも発見されないわけだ。健全な宗教というものの意味は、依然として一向ハッキリしない。
 では最近邪教の標本として内務省と司法省の槍玉に挙げられている大本教を見れば、何が健全な宗教で、何がインチキ宗教かがわかるだろう、というかも知れないが、必ずしもそうではないのである。大本教(皇道大本)の検挙の内容については、本当はまだ詳細または正確に知ることは出来ないが、とに角それが犯罪を構成するらしい点は、治安維持法違反か不敬罪の類であるらしい。だからいずれにしても日本の国体の尊厳を犯すという所であるらしい。でこの宗教乃至類似宗教が邪
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