機とするようになっているという点を、今は見落してはならぬ。そうでなければ、受験準備に較べていささかも合理性を持たぬ抽籤や願書順のような迷案を工夫する気になる筈がないだろう。こうした入学試験の代用案が、実際問題としては決して一般的に通用し得ないものであることは云うまでもないが、とに角くじ引きの如きに至っては、何と云っても完全な社会的ナンセンスだと云わねばなるまい。
 それはさて措き、入学試験の必要が、教育施設の或る意味での自由放任主義から生じて来ているという点は、「良い」中等学校と良くない中等学校との対立となって現われているのである。良い学校と良くない学校との開きがあるが故に、少なくとも現在の入学試験の必要が生じて来ているのである。中等学校の収容可能の人員の総数と入学志願者の総数とを比較して見ると、必ずしも入学志願者の方が目立って多いとは限らないというのが現状だ。従って、元来今日の中等学校数に止めておいても必ずしも入学試験は必要ではないかも知れないのである。処が、良い学校とそうでない学校との間に開きがあるために、良い学校への入学難と、悪い学校の入学者募集難という、珍現象を呈しているわけだ。
 一体良い学校というのは何かというと、必ずしも教師や設備のよい学校のことではなく、より多く秀才の集まる学校のことに過ぎない。つまり入学志願者が多くて、同じ二百人を取るにもより優れた二百人を取ることが出来るという学校のことだ。処がこの良い学校には入学志願者が愈々殺到するというのだから、つまり志願者の多い学校は益々その志願者が殖える(或いはより秀れた志願者が殺到する)ということに他ならない。之は丁度、資本が大きければ大きいだけ、資本増大の量も愈々大きくなるという資本主義的レーセ・フェールの法則と、本質的に同じような物なのである。
 処がこの良い学校と悪い学校との[#「良い学校と悪い学校との」は底本では「良い学校との悪い学校と」と誤記]対立の原則は、単に現在の凡ての中等学校を公立や官立にして見た処で、決して根絶されるものではない。一旦平等になっても、一寸した傾向がつくと、その傾向は自分みずからを助長して、またまた著しい対立を産み始めるだろう。夫は丁度、資本主義機構の内で、如何に資本の過度の増大や分配の不公平やを修正しても、資本主義の根本機構である貧富対立の原則は停止しないと同じようなもの
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