だがこういう市井的な諸原因は別に改めて考察しなければならない。今はスクリーンそのものに現われる内容で、何が私を面白がらせるのかを考えて見る。と夫は何と云っても、スクリーンが視覚の官能に活動性を与えるという、一見判り切った事情につきるのである。なる程トーキーがもはや視覚だけに訴えるものでないことは忘れはしない。それに視覚と云っても今日のトーキーで充される官能は、高々平面的な形と陰影と動きとだけであって、立体もなければ色彩もない。トーキーによって映画が本質的な飛躍をなしたことも、今日のトーキー映画の視覚上の大きな制限も知らないではないが、にも拘らず今日の映画は、すでにそして何より、視覚の官能を満足させる。トーキーになってから映画が俄然面白くなったわけではなく、面白みの基調はすでに無声映画時代からあったのだ。
尤も視覚型の人と聴覚型の人との区別はあるが、併し少なくとも映画に於ては視覚の役割は聴覚の役割に較べて、比較にならぬほど大きいと云わねばならぬ。トーキーは音に写真を与えたものではなくて、写真に音を与えたものだという映画発達の歴史は、無視するわけには行かぬ。盲人の世界像には触覚が大きな役目を果していることを知らぬ人はないが、この触覚は聴覚よりもはるかに視覚に似た性質をもっている。視覚自身も撫でる性質を有っている。之は聴覚の時間的連続とは違った空間的連続の緊張感を有っている。触覚もそうなのだ。通常の意味での実在の認識[#「実在の認識」に傍点]にとっては、だから聴覚よりも視覚の方がはるかに根本的な意義を有っているとも云うことが出来る。処で映画は丁度この視覚に強調をおいているのだ。
臭覚や味覚のことは論外としよう。触覚について云うなら、映画にどんなに完全な実在再生の機能を要求すると云っても、之に触覚を求める心配はないだろう。見又聞きするには対象との間に一定の距離がなければならない。見聞きには一定の媒質が必要で、之が直接の接触の代りをする。眼に物をひっつけたら却って見えなくなる。この距離というものは、実際活動ではなくて観照である場合には無くてならない条件であって、美学や芸術学でいうインテレッセロージッヒカイト(無関心)の性質に相当する生理的事情だと云っていいかも知れない。そしてこの距離をおいての感動は、中でも「見る」という作用によって代表されているのである。この段階を離れ
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