このブルジョア・アカデミーの延長と見ていい。一方フランスの宮廷貴族達は虚栄心に充ちた芸術の消費会議所ともいうべきサロン又はシャンブルを持った。今日のブルジョア芸術のサロン又はアカデミーは之からの変質と見ていい。尤も学問界では現在、大学と呼ばれるものとアカデミーと呼ばれるものと区別されているが、その区別の要点の一つが、学生を有っているかいないかにあることは、今特に注意に値いする。
現代ブルジョア大学は元来、学職ギルドと教権批判の自由(大学の自治と・学の独立)の名義を帯びている点で、中世的大学と初期商業ブルジョアジーのアカデミーとの総合という、形式上の資格を持っている。処で教権批判の初めに当ってこそ、この学職ギルド組織は欠くことの出来ない実行的組織であったのだが、強権批判という当面の課題が重大性を失い始めて教権批判の自由が一般的な批判や学の自由にまで抽象化されると、この学職ギルドの実行的組織としての価値が消滅し始めるのである。つまり充分に発達したブルジョア社会に於ては、大学という学園乃至学団組織は、批判の自由や学の独立を護るための実行的組織としては、殆んど無力とならざるを得ないのである。一体発達したブルジョア社会に於ては、中世紀的残存物の形をもった学職ギルドの如きは一つの神話的存在であって、之を信頼することは一つのユートピアに他ならない。
そこで学職ギルドとしての大学はその解体作用を早晩発生させるのだが、日本では夫が教授団と学生大衆との物質的な又理想上の分裂という特別な形をとって現われている。大学はその主体乃至自治権所有者から学生を除外することによって、中世的共同社会から単なる市民的利益社会にまで分解発達する。之は大学に於ける大学[#「大学」に傍点]の自治(ギルドの自由)と学[#「学」に傍点]の独立(批判の自由)との元来の矛盾が洗い出されたことに他ならぬのであって、「大学」と「学」とが分裂し始めるのだから、世間では之を大学の転落[#「大学の転落」に傍点]と呼ぶのである。こうしてブルジョア大学は次第に高まる必然性に従って、大学内部だけから云っても、大学当局と学生大衆との分裂対立を惹き起こさざるを得ない。之が例えば学生の左傾[#「学生の左傾」に傍点]というものに他ならぬ。
学職ギルドとしての大学学団が分解する過程だけを抽出すれば、こうした契機が現われるが、併しこの大学
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