の「社会的」位置をハッキリさせることに他ならず、学生の一種の技能者・技術者としての社会的使命を自覚することなのである。之が学生という「社会的カテゴリー」に忠実なる所以なのだ。
学生に関する学生自身にとっての一切の問題は、終局に於て、この「知能的技能者としての学生」というカテゴリーから見て、解決されねばならぬと私は信じる。この意味に於ても「技術の獲得」ということは、学生の社会大衆的な使命だ。学生はそのためには願ってもない境遇だ、大衆は学生に対して(馬鹿書生は別として)、この知能的技能者を求めている。大衆自身の未来の社会のために、この要求の前に学生生活の見透しとモラルとは明々白々ではないかと思う。
以上すでに書いたり云ったりして来たことであるが、最後に一つのことを之につけ加えたい。夫は学生にとっての自意識[#「自意識」に傍点]と大衆性[#「大衆性」に傍点]との結びつきである。と云う意味はこうだ。学生は一種の知能分子である。知能=インテリジェンスの特色は、夫が最も自覚[#「自覚」に傍点]され易いと云うこと、自意識を必然的に随伴するということだ。かくてインテリゲンチャにとっては自意識なるものがいつも正面に押し出される。だからかつて「知識階級論」が行なわれた頃、文士達は自意識と云うもので作家の人間的知能を云い現わそうとしたものだ。それはそれでよいのだが、併し自意識に於ける自分、自我、というものは何かが判っていなければ、危険この上もないのである。朕は国家であると云ったルイ十四世のようなのも自我なら、一切の事物は自分の観念に過ぎぬと考えたバークリも自我だ、自意識も大切だが自分を自覚するこの自分が抑々如何なる自分かがもっと大切だ。学生はインテリゲンチャとして、自意識が濃厚だ。併し学生の「自分」は何か。
だが実はそのことは先程述べたのである。学生の身分は、学生という社会層は、民衆にぞくするものである、無産勤労大衆乃至プロレタリアに準ずべきものであると云った、夫がこの「自分」の説明である。学生の自覚は、自分を大衆として自覚することだ。
大衆の足場・眼・以外に、学生の立つべき又持つべき足場も眼もあり得ない。学生と云う特別な層があって夫が独自な足場や観点を提供すると思うなら、恐らくそういう学生はこの支配者社会に於て最もよく飼い馴らされた処の「学生の本分」を専門とする処のものだろう。
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