、なぜこれまでに衣服に就いての哲学が書かれていないか、を怪んでいる。衣裳ほど日常吾々の眼に触れるものはないのに、之に就いて哲学が語られたことがないというのは、何としたことだろう、というのだ。イギリス人などが衣裳哲学に考え及ぶことなどは想像も及ばないだろう、ドイツ人なら或いは衣裳の哲学に向いているかも知れない、というわけである。そこで無耶郷のトイフェルスドレック教授なる人物の書物が出て来て、衣服の考察が始まるという仕組みである。
 トイフェルスドレック=カーライルはこの際、要するに衣裳という人間の装飾物[#「装飾物」に傍点]の否定者であり、アダム主義者(アダミスト)的裸体主義者であって、ドイツ観念論式に抽象的で純粋な「純粋理性」を信じる先験主義者であるのだが、併し衣服というものが有っている社会的で歴史的な特有なリアリティーに就いての関心を強調していたことが、今日の吾々にとっても興味のある個処だ。なる程衣服に就いて書かれたものなら山ほどあろう、各時代の又様々な地方の。だが衣服が有っている社会的政治的な意義、歴史に於けるその積極的な役割、それから思想・哲学・文学・芸術・等々に於ける不可欠の一ファクターとしてのその特異なリアリティー、こういうものはカーライル以後もあまり真剣に注目されなかったのではないかと思う。そういう意味に於ける「衣服の哲学」は、流石哲学好きのドイツでも発達しなかったようだ。
 カントはイギリスの新聞に床屋の哲学というのが載っていたと報告しているし、ヘーゲルは靴屋の哲学の批判をやっている。併し哲学に就いては今はどうでもよい。問題は、衣服というものが寝ても起きても実在しているもので、そういう生々しいリアリティーを持っているにも拘らず、このリアリティー[#「リアリティー」に傍点]の特色そのものに就いての理論的考察は、甚だ影が薄いのだが、それはどうしたものか、という点にあるのである。カーライル=トイフェルスドレックは自分が或いはサンキュロットであるかも知れぬ、と弁疏している。サンキュロットとは云うまでもなく、フランス大革命時に於ける一つのプロレタリヤ的な勢力とも見ることの出来る分子で、短袴をつけぬ無礼者の一団のことだ。実際衣裳の思い切った変革は、それがただの流行の誇張や新しがりでない場合(いや新しがりでもそうだが)、多くは思想[#「思想」に傍点]的な意味を有つも
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