蒙とは知識なり見解なりをある一定の政治的な意図[#「政治的な意図」に傍点]の下に、大衆[#「大衆」に傍点]に普及することであり、その際その知識なり見識なりは一定の政治的機能を果す事によっておのずから広義の政治的見識へ編入されるのである。だからアカデミックな知識のポプュラリゼーションは殆んど啓蒙活動の態をなさぬが、之が正当な意味に於けるジャーナリズム(但し現在のブルジョア・ジャーナリズムの要素の大部分は正当にジャーナリスティックな機能を果していない)の一ファクターとなる時、それはやや啓蒙活動の性質を帯びて来る。この時啓蒙活動の相手となるものは、もはや一般素人というものではなくて、民衆であり人民であり大衆である。この後のものはジャーナリスティックな(新聞と政治的見解との連絡に注目)又政治的なカテゴリーなのである。前者は之に反して、単にアカデミシャンの有ちそうなカテゴリーにすぎぬ。
 今日日本に於てなぜ啓蒙活動が必要かと云えば、一切の社会的デマゴギー(民衆の愚昧化を条件として、根本的に虚偽である処の、しかも卑俗には尤もらしい処の、固定観念と流行語とを人民に教え込むことだ)、と対抗するためである。夫は民衆の真の利益を自覚に齎すための一つの不可欠の手段のことなのである。そして今日一切の社会的デマゴギーは結局に於てファッショ的言論へと統一されて行きつつある。ヒトラーは一九三六年秋ニュルンベルグのナチ大会で、ボルシェヴィズムはユダヤ人のものであるが故に之を打倒せねばならぬと「獅子吼」したそうだが、こうしたものが一九三六年度の世界的デマゴギーの特徴をなすだろう。
 ではこうしたファシスト・デマゴギー(その背後にはファシスト的社会・政治活動・の一連が控えている――例えば国家は資本家ではない、国立の工場では労資の区別はない、そこでは対資本家的労働組合は不合理だ、等々)、に対抗する唯一のものが、最上のものが、日本では啓蒙なのか。日本では民衆の利害のためのプロパガンダは許されないか、人民の利害についてのアジテーションは許されないか、人民のオルガニザチヨンは許されないか。――私は今ここで、こうした政治上の見解に触れることは出来ぬ。だが少なくとも、わが国の現下の事情に於て、オルガニザチヨンやアギタチヨンやプロパガンダ等の特に政治的な言論活動形態と平行して、特に必要で又特に現実味のあるものが、啓
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