つものは、元来、何か公的なものに限るわけで、例えば政治的な又市井的な行動や言論が夫であって、一切の私的なものは除外されるのが立前である。人の見ていない処で何をしようと、それが他人へ決定的な影響を与えない限り、丁度人間が何を考えようと勝手であると同じに、それは全く個人の私的行為であって、警察権の支配外に横たわるべきだと考えられるのが当然である。
処が私的な個人的な事柄も、あまり多数反覆されたり、あまり著しく類型をなしたりする場合には、やがて、おのずから公的な社会的な意義を持って来るのが事実であって、例えば「不良ダンス教師」の不良振りは、一人一人の場合や単に幾つかのダンスホールだけの場合に就いて云えば、全くの私行問題に過ぎないとも考えられるが、それが多数のダンスホールを通じて多数のダンス教師に共通な現象だとなると、不良少年係りの風紀警察網に引っかかるのである。有閑マダムは何も街頭や店内で風紀を乱しはしないが、不良ダンス教師や名流文士の賭博という、やや公的な風紀壊乱や「犯罪」と結びつけられて、風紀警察ものとなるのである。
二[#「二」はゴシック体]
文化警察に就いても風紀警察と殆んど同じに考えられるのであって、思索や読書や意見の発表が単に処々で個人々々で行なわれている間は、之は全くの私事にぞくするが、夫が多数の人々によって規則的に行なわれる一つの現象となると、注目すべき公的な「社会現象」になるわけで、その結果は単に意見の宣伝や意志の表示ばかりではなく、個人的な読書さえが文化警察権の支配下に立たされるようになるのである。
私的な生活が決して公的な社会的な生活から切り離すことが出来ないのは、以上云ったような点からだけ見ても明らかで、その結果、極端に考えれば、私的なものとの区別は厳密には与えられないということになりそうだが、もし夫が本当なら、吾々の生活の凡てのアスペクトが、皆警察権下に横たわることになるだろう。そういう馬鹿げたことがない以上、或いはそういう馬鹿げたことがあってはならない以上、私生活と公的な社会的な生活との区別は、いつも残存しなければならない筈だ。
処が、私的なものがやがて公的なものへ何時の間にか移行するという今云った事実を、ある目的の下に逆用して、私的生活にぞくするものを、勝手に公的な社会的なものと見做すという手段によって、警察権はいくらでも私
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