庁の業務執行に立ち入ることが以ての外で、そう云えば賞与贈呈ということが元来不遜だというのが、警視庁の憤慨の根拠である。
業務執行に立ち入ると云っても、之を褒めたのなら無論問題にはならなかったろうし、又後になってから賞与贈呈が不遜だと云うのも辻褄が合わないが、それはとに角として、警視庁の方針を否定する後援会ならば潰して了えという意見さえ出るようなわけである。処で矢野氏自身は初め、警察当局に忠言を呈したので、それが悪るければ理事は辞める、寄付をしたり叱られたりしては割が合わぬよ、と云っていたが、併し穏便を第一と考えたのだろう、遂に警視庁に出頭して、後援会の理事をやめるから何分穏便に取り計らって戴きたいと陳謝したので、警察当局は矢野氏を許してやったのである。警視庁という処は本当に偉い所なのである。
思うに矢野氏及び警察後援会の人達の間には、一つの感違いが初めからあったのだ。と云うのは、大衆が警察を後援し得るものだと初めから仮定してかかったことが、こうした脱線の原因なのである。警察の方では自分を大衆と一つになどは考えていない。警察は大衆と一体などではなくて、大衆を警察する処のものでなくてはなるまい。だからもし万一後援会なるものが許されるとすれば、それは完全に警察の云う通り注文通りになるべきであって、いやしくも警察外から忠言を呈したり注文をつけたりするような警察「後援会」はあり得ない筈だ。処が警察の外にありながら警察と一体であるようなものでなければ警察後援会という言葉の意味に合わない筈だから、つまり警察後援会なるものは論理的に不成立だということになる。まして、後援会の中に、矢野氏と同意見の不埓な人間が多数いるようでは、後援会は後援会ではない。後援会無用論は、警察と大衆とが一体でない以上、論理的に首尾一貫している。勝は警視庁の側に上らなければならぬ。
もし警察後援会の代りに、警察オブザーバー会とでもいうべきものを造ったのだったら、矢野氏もあんな不体裁な目を見ずに済んだろう。警察に対して大衆が之をオブザーブするのである。無論この際は警察が大衆と一体だなどという仮説は成り立たないが。そうすれば矢野氏はもっと首尾一貫した立場から、警察に忠言を与えたり賞与を与えたりすることが出来たろう。そうして警察から縁切りされても心配する理由もないし、又初めから縁切りされるということの成立しない関係なのだから、警視庁へ行って謝らずに済んだだろう。警察が国民に対してなすべき警衛のサービスに就いては、国民自身が之をオブザーブしなければならない筈ではないだろうか。警衛を頼んでおいた門番や守衛にも叱られるような主人は困る。国有鉄道のサービスに注文をつけたお客さんが一々鉄道省のお役人から叱られていては大変だ。――それとももし警察が大衆へサービスすべきものではないというなら、一体警察は何にサービスする気か。私は今にしてどうやら判るのである、なぜ「警察後援会」に無条件に賛同出来なかったかが。大衆が警察を後援しようということが元来無理な企てなのだ。矢野氏の失敗が之を証明している。
三、家庭考査
小学校の一年からズーット一番を通して来た女の子がいて、それが教員になることを希望しているが、父親が今現に懲役に行っているので、師範学校へ這入れないと思うが、どうしたものだろう、という婦人相談がある(読売)。河崎ナツ子女史によると、理窟としては前科者の子弟であろうと何であろうと、入学を拒まれる理由はない筈であるが、今日の社会の実情から云えば、入学希望者が過剰なため、庶子や私生児や三業者の子供がいけなかったり、資産や家の大きさまでが入学に関係したりしている、ということだ。まして前科者の子弟をやというわけである。処で普通学務局長の下村寿一氏は、刑余者の子弟だという理由で入学出来なかったというような噂さは聞かぬ、師範学校の校長は併し、なるべく学風[#「学風」に傍点]に適した生徒を取るように賢明な裁断を下すべきだろう、と云っている。処が更に女子師範学校の校長は、前科者の子弟ということに対しては小学校の児童は非常に敏感なので、自然生徒に軽侮されることになるから、結局教育家として不適任だと、相当ハッキリ告白しているのである。だが問題は単に師範学校に這入れるか這入れないかの問題ではないのであって、一般に今日男女を問わず中等学校(小学校も特別なものの場合には同様だが)以上の学校の入学考査全体に亘る問題なのである。又それに前科者の子弟であるかないかだけの問題でもない、どういう家庭[#「家庭」に傍点]の子弟かということがこの際の一般問題なのだ。
特殊の小学校や私立女学校の或るものは、学校営業の目的から云って、児童や生徒の家庭の資産状態を重大視するのは当然で、学校への寄付能力の貧弱なものを採用したのでは引き合うまい。この方針を徹底すれば、入学金の納入高の多い者から採るのが合理的で、そして入学金を試験以前に前払いするという形式を取れば、所謂不正入学ということになるのであるが、莫大な入学金を試験前に前払い出来るような家庭の生徒を採用することは、学校自身の営業方針から云って、少しも不正なことでも何でもない。不正なのは生徒の側だけだ。それだけではなく、こうした「良家」の子弟だけを選んで入学させることは、教育の目的に最も適った実を挙げることになるのであって、下等な家庭の子女の下等な精神による影響から学校を清めることになるから、帰せずして文部省の方針に一致することになる。それから文部省から見ただけではなく、家庭の側から見ても、嫁にやるべき大事な娘などなら、あまり変な下等なお友達と一緒に教育される学校を出たのでは条件が悪るくなるし、それは学校から云えば嫁入り率が減って従って段々良家の子女が競争して集まらなくなることを意味する。前科者の子女などは縁起でもない。私生児庶子は之に次ぐもの、というわけである。
官公立の中等学校だってこの教育の実際上[#「実際上」に傍点]の方針に就いては変りはないのだが、大体中等学校では家庭[#「家庭」に傍点]を中心にして入学考査すると見ていいだろう。処が高等学校専門学校になると、家庭よりも寧ろ本人[#「本人」に傍点]を中心とする。本人を中心とするのは当然なようだが、本人の人格[#「人格」に傍点]を中心とするのである。十八や十九の者に人格も何も問題になるものかと云うかも知れないが、人格というのは実は思想傾向[#「思想傾向」に傍点]のことに他ならない。そんな子に思想も何も問題になるかと云うかも知れないが、日本で思想というのは社会意識のことだ。即ち社会に対して一定の認識を有っていないかいるかということだ。こういう知識の所有者は教育には不適当だというわけなのである。
処が子供のそうした「思想」は父親の思想と相当関係があるので、その限りでは本人[#「本人」に傍点]の問題は往々矢張家庭[#「家庭」に傍点]の問題に帰着する。こうなると専門学校以上の学校でも、この意味で矢張家庭が重大な考査資料にならざるを得ない場合が生じる。士官学校などはその典型的なものだろう。これを中等学校に移せば、師範学校の場合になるのである。――家庭の階級的類別と、その家庭に育つ子弟の社会意識乃至思想との間に横たわる、この唯物史観的真理を、最も早くから知っているものは教育者夫子自身なのである。(一九三四・八)
[#地から1字上げ](一九三四・九)
[#改段]
罷業不安時代
一、この罷業はなぜ正当か?
東京市電気局は、市電営業による赤字年額八百万円を克服するために、今回主として市電従業員の整理を中心とする整理案乃至減給案を発表した。市会は無論之に承認を与えているのである。夫によると、第一に、従業員一万二百名全体へ一応解傭を云い渡し、之に退職手当二千万円(一人当り平均二千円)を支給した上で、全員を新規定賃金によって改めて採用するというのである。新規定の賃金というのは四割前後(最高四割五分に及ぶ)の減給に相当するのであって、之が適用される従業員数の内訳は、市電関係約七千人、自動車関係約二千人、電灯関係約六百五十人、工場倉庫関係約五百五十人である。第二は、市下級吏員の減員で、之は内勤外勤を合わせて百八十余名の整理となる。
第一の従業員大減給の結果、市財政から三百十万円が浮き、第二の吏員の整理で四十六万円を浮かせ、その他市債の整理で三百万円、電力自給によって二百四十五万円(但し之は五六年経たなければ実現しないが)を節約することが出来る筈で、合計九百万円程になるから、例の赤字は完全に克服されることになるというのである。退職手当の二千万円はどうして造るかと云えば、市債を新しく起こすのだそうだ、吏員は従業員とは異って労働者でなくその数も多くはないので(とでも云っておく他ない)整理されない人間は云うまでもなく、整理される当人達自身も集団的には之を問題にしていないから、世間も又吾々も、あまり之を気に病む義務を感じないのであって、問題はいつもこの市電従業員の方にあるのだ。
山下電気局長はそこで、この整理案によらなければ市電の経営は完全に行きづまり、結局は従業員諸君自身の不為めになるという点を慮って、親心[#「親心」に傍点]になって整理を断行するのだ、今後は決して整理や減給はしないから、と涙を流して従業員に訴えた。併し東京交通労働を中心とするこの市電従業員達は、この「親心」という奴には余程懲り懲りしていると見えて、言下に之を拒絶して了ったのである。つい一昨年一千三百五十名の整理と一割二分との減給をやったばっかりなのだから、この親心に信用出来ないのは無理からぬことだ。
局長以下二千名の俸給はそのままで、従業員だけが約半額の減給というのだから、誰だってこんな親を本当の親とは思うまい。二千万円も退職手当を出す(場合によっては一人五千円近くにさえなる)のだから、文句は云わぬ方が良かろうと、それに退職手当を勘定に入れると、実は四割五分どころではなく、僅に四分乃至一割九分の減給でしかなく、場合によっては増給にさえなるから、良いではないか、グズグズ云うと退職手当を踏み倒すだけでなく、共済会で出す筈の金も半分ばかり踏み倒すぞ、と市当局はいうのである。併し冗談もいい加減にして欲しいので、退職手当は減給などとは無関係に傭員規定で決っている従業員自身の積立金で、自分の積立てたものを自分が受け取るのは別に変ったことではないのである。仮にそうでないとした処が、あと十年つとめれば十年だけの退職手当の増加もある筈の処、今の計算で之を貰うのでは何のことはない、年功加俸を踏み倒されるようなものだ。(而も噂によると、今渡すのではなくていつか退職する時渡すことを今から約束しておくに過ぎないということだ。)それから、仮に一時金として二千円貰った処で、之を今後の十年間で割れば年二百円でしかない。それと引きかえに日給が初任給より僅かに高い程度のものに引き下げられるのだ。だから、減給率が四割五分の代りに一割何分だとかいう市当局の弁解(之は新聞でも算出してあるが)は、一体何を根拠にしたものか、数学的に極めて疑問でなくてはなるまい。流石の警視庁も気が引けたと見えて、強制調停を見越して、市へこの点につき質疑を発するそうだ。
局長の親心には、こういう数学応用の手品があるばかりではなく、他に行政的な手品もあるのだ。一旦馘首して全部を改めて採用するというやり方が、仲々上手な減給法であるばかりではなく、もし万一之に多少とも困難が伴って従業員に不穏(?)な行動でもあった場合、それ等の従業員に限って再採用しないということにすれば、甚だ円滑に不良(?)従業員だけをピックアップして、平和に閉め出すことが出来るというわけである。
話しは変るが、東京市会が本年度の予算編成に際して、市会議員の歳費千二百円を三千円に増額お手盛りしようとした事実を、読者はここで思い出して欲しい。尤も之はいくら何でも外聞が悪いというので、その代りに市政調査費という名目で市議一人当り年八百円
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