、その万引自身も亦精々笑い咄しになって了う、ということも出来るようだ。五輪の塔は教授の病的昂奮を外にしては、冷静に見れば彼の社会生活にとって真剣な意義のあるものでないので、教授自身之を大して悪いことだとは思わなかったのかも知れない。
 処が翌日の新聞を見ると、教授のやったことは単に窃盗だけではなく、古墳の発掘という犯罪にも該当するらしい。墳墓発掘罪とかいうものが適用されそうなのである。それは墓石を発掘している時に計らずも白骨が出て来たということからだそうである。こうなるとこの犯罪に対する興味は、もはや教授窃盗事件の興味ではなくて、墓墳発掘、古墳発掘、従って又史跡蹂躙、という事件の興味に変って来る。
 単に教授が泥棒したというだけでは、珍らしくてセンセーショナルだというだけで、社会の何か一定の集団にとって特別の利害があるわけではないから、別に輿論もやかましくならないが、史跡蹂躙というレッテルが貼られると、色々な「史跡」関係者が出て来て、輿論[#「輿論」に傍点]を[#「輿論を」は底本では「輿輪を」]造り上げ始める。鎌倉の社寺の神官僧侶達が、史跡擁護の旗の下に、よりより協議中だということになって来た。
 処で五月三日の新聞になる。東京朝日新聞は輿論[#「輿論」に傍点]が増々高まって来たことを報じている。日本地歴学会の大森金五郎氏等は「墳墓発掘は日本国民思想に影響を及ぼすことが大きい」というところから、全国の史跡保護の運動を起し、学会の名を以て内務省や文部省に取締の請願を始めたし、神奈川県の史跡調査会は対策協議会を開いたし、例の日本地歴学会の某氏は「史跡荒しの墳墓発掘は社会風教上遺憾なり」として、検事局に向け教授を墳墓発掘罪として告発することになったそうである。
 発掘事件は遂々、社会風教問題に、思想問題にまでなって了った。初め僧侶達は、墓石窃盗の被害を、史跡の蹂躙という名によって権威づけたが、今度は歴史家達は、史跡蹂躙を、更に思想問題という名の下に権威づけて了った。私はオヤオヤと思ったのである。
 それから三四日経って、東朝の「鉄箒」欄に、村岡米男という人の投書がある。それは頂門の一針として一寸痛快なものである。この人の云う処によると、百八矢倉に行って見ると、これが大切な墓かと思うような保存は以前から一つもされていなくて、墓は倒れ埋もれて全く見る影もないように前からなっていたのだそうだ。住職の今更ながらの史跡擁護づらが滑稽だというのである。私も大方そんなことではないかと思っていたのである。もしこれが本当だとすると、「日本国民思想に影響を及ぼすことの大きい」点も「社会風教上遺憾」な点も、一部分はこの住職の責任にもなろうというものである。住職は人ごとのように史跡蹂躙呼ばわりをするのをチト気を付けなければなるまい。
 だがそれで何も、教授の罪が軽くなるわけでも何でもない。一体何だって、こうした発掘事件をまで、思想問題[#「思想問題」に傍点]という形で騒ぎ立てる必要があるのか、という点が問題なのだ。
 歴史家が史跡擁護を唱えるのは多分、歴史研究の資料を保存するためだろうと思う。処で古墳などを発掘するということが、とりも直さず歴史研究の資料を見出す絶好の機会ではないかと、そう素人の私は想像している。そうすると墳墓発掘ということは場合によっては歴史研究なのだから、歴史家は強《あなが》ち墳墓発掘を一概に非難出来ない義理合いにあるわけだ。この墳墓発掘が古跡荒しになるからというだけの理由ならば、別に之を思想問題呼ばわりする[#「呼ばわりする」は底本では「呼ばりわする」]必要はないのだし、単に窃盗ならば問題は警官が宗教罪に一任すれば解決する。
 思想問題にうなされ[#「うなされ」に傍点]ている或る種の人物には、何でもかでもが思想問題になって見える。単なる墳墓発掘が思想問題ならば、死体の解剖をすることだって思想問題になるだろう。尤もこの頃では、死体の解剖をしない[#「しない」に傍点]ことの方が実は思想問題なのであるが。
 今年の国展は仲々いい展覧会だった。
 今迄のゴミゴミした絵や、情実関係としか見えない拙い小品が、すっかりなくなったのは、今年の審査の出来栄えだった。展覧会も甘くして入選者の御機嫌ばかりとっていないで厳選にして呉れた方が観る方は助かる。
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 しかし西洋人のクレヨン画みたいなものが沢山並んでいたのは、どう云うことか、素人には解らない。あれは子供の自由画みたいなものだが、展覧会にあんなに沢山ならべるもんですかねエ。
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 梅原龍三郎氏の小品三点は、小さい乍ら立派なものであったのは、流石名匠の腕であるが、自分が大将である展覧会だから、もう少し大きいものを沢山みせて貰いたかった。見物はそれを楽しみに行くんですからね。
 川島理一郎氏の台湾土産も粋な画だ。
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 工芸室は国展の名物で、いつも楽しみにして出掛けるが、良くて安いものは、招待日の朝出掛けて行って、既に赤札とはどう云うわけだ。
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 今年の工芸は種類が多くて賑かだ。安い絨氈が傑作である。芹沢と云う人は立派な図案を創る人だ。
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 春陽会は国展から見ると、ひどくダラシがない。もう少し近頃流行の厳選に願いたいね。
 洋行帰りの下手糞ばかり沢山あっても景気は出ない。
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 別付貫一郎と云う人の伊太利風景数点が一ばんよろしい。会友中の洋行帰りではこの人が良い。鳥海青児はいかにも汚い。加山四郎はいかにも拙い。
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 出品者の洋行帰りじゃ、画因が古臭くて、乾燥しているが、大森啓助と云うのが、腕は相当たしかだ。他の連中は申合せた様に、南仏の巴里郊外を描いて、まごまごした筆の下手さ加減は、どうだ。外国風景の色の奇麗さだけでは、もう観る方も惑わされはしませんよ。
 下手糞が面白がられる情なさ。
 と云うのはどうじゃね。近来画壇の一傾向を云い得て妙だろう。
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 春陽会と云うところは、恐ろしく会員の不熱心なところだ。長谷川昇先生一人気を吐いて、これに続くものは倉田白洋先生位じゃ。
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 元老株は、日本画、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画と遊び、壮年会員は一向にいい作を並べて呉れない。小山敬三氏一人が勉強している様だ。
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 妙だと思っていたら、新聞報ずるところは硲、小山の両中堅の春陽会脱退だ。この二人が脱けたら、春陽会にとって相当の痛事だ。展覧会も古くなればいろいろと事件がおきる。画壇のためには、起きた方がいいかも知れぬ。
[#地から1字上げ](一九三三・六)
[#改段]


 自由主義の悲劇面

   一、五・一五事件「発表」

 現内閣を非常時内閣とかいうそうであるが、ある人の説によると、それは、五・一五事件の処置をつけることを目的とする内閣という意味だそうである。この非常時現内閣にとって何より宿命的な五・一五事件が、丸一年間もの「慎重」な審議の揚句、やっと公表されることになり、同時に一般記事の掲載解禁となった。まことに御同慶の至りと云わねばならぬ。
 処でこの事件の発表の一日前、即ち五月十七日には、之も四年程前に起こった私鉄事件・売勲事件・其他の被告達に対する判決云い渡しがあった。特に私鉄事件に関しては、小川平吉其他の巨頭が無罪を云い渡されたのに対して、検事局は職業柄、控訴すると云って力こぶを入れている。だが世間ではそんなことはどうでも好いのである。この不名誉な英雄達を世間は頭から問題にしていない。彼等は全く人気のない惨めなうらぶれた主人公達である。わずかに、みずから青天白日の身をいとおしむのが精々だ。悪事を働いたり働こうとしたらし[#「したらし」に傍点]かったりする者が不幸になるのは、素より××の××たる所以である。
 所が之に反して、五・一五事件の巨頭達は、今度の発表に際して、単にジャーナリスティックに中々華かで人気があるばかりではなく、特に×××の被告達の如きに到っては、軍部大臣等自身の口から、正義の憤激に燃えたその心事を、痛く××され又××されてさえいるのである。前の収賄事件の英雄達に較べて、この×××は何と幸福なことだろうか。彼等は尽く「人格者」だそうであるが、人格者が多少でも幸福になるということは、之又××の××たる所以でなければなるまい。
 収賄などという犯罪と、政治上の確信犯とでは、少くともこの位の社会的待遇の相違があるのは、当然だと一応私はそう思うのであるが、併し、それは例の滝川教授の説の一部を支持することになるわけだから、恐らく間違っているのだろう。
 よく考えて見ると、実際に、この考えは間違っているらしい。その証拠には同じく政治上の確信犯だと云っても、例えば之が左翼の諸事件の主人公達だったとすると、「社会の通念」から云って、収賄罪の主人公達よりも、もっともっと社会的に虐待されることは当然なことなのである。「人格の陶冶」の足りない人間が、一等みじめな眼に合わされねばならぬということは、之又××の××たる所以と云わねばならぬ。
 今度の五・一五事件の発表を見ていると、とにかくファッショの「××」×はうらやましい程幸福である。少くとも彼等は、こんなに同情に富んだ根本的には出来栄えの至極良好な社会の手によって、「処罰」されるのに、決して悪い気持はしないだろうと思う。
 だがこう云って、何か判ったように説き出したのではあるが、実はどうも判らないことばかりなのである。五・一五事件の大体の道筋は、世間の誰もが既に知っていることで、今回はそれが多少具体的に整理されて紙上で発表された迄なのであるが、それで判るようになったかと思うと、そうではなくて、事柄は却って益々判らなくなって来たのである。
 陸海軍の青年将校や士官候補生が、犬養首相を××××、警視庁や立憲政友会本部や日本銀行を襲撃したとか、又常人側の行動隊が変電所を襲ったとかいうような報道は、その当時、人々が既に知っていたことで、誰と誰とが何をしたとか、手榴弾や拳銃をどうやって手に入れたとか、云ったような「具体的な事実」を今更報道して見た処で、五・一五事件なるものの真相が具体化されて報道されたことにはならぬ。世間が知りたいのは、そんな末梢的な「事実」ではないので、この事件の本当の背景と、その背景と本件との具体的な関係なのだ。
 所謂「五・一五事件」なるものが、決して昨年の五月十五日に起きた事件だけを指すのではなくて、例の日召等の「血盟団」と密接な連絡があったことは、相当明白に公表された。所謂「五・一五事件」は、決して単なる五・一五事件でなかったことが判る。だが、五・一五事件+血盟団事件が五・一五事件の「全貌」かと思うと、どうもそうではないらしい。
 五月十八日付東京朝日新聞の社説は云っている。「事は昨年五月十五日に突発したのではなくて、早く井上・団・両氏の暗殺にもつながり、更により以前にさかのぼれば、流言蜚語として一部に伝えられたる事すら、全く根もないことではなかったのではないかと思い当らしむるものがあるのである。」井上・団・暗殺事件というのは今云った血盟団の仕事のことであるが、それ以前に、流言蜚語として一部に伝えられたものが何だかに就いては、吾々良民は一向見当が付き兼ねる。
 所謂五・一五事件なるものは、単なる五・一五事件でないばかりではなく、五・一五事件+血盟団事件だけでもないらしい。処で之を「五・一五事件」[#「五・一五事件」は底本では「五一・五事件」]として、或いは已むを得なければ「五・一五+血盟団事件」として、孤立させて発表するのには、当局に何かの都合があることだろう。この当局の都合も顧ずに、五・一五事件の全貌[#「全貌」に傍点]が発表されたとか何とか云って騒ぎ立てるのは、甚だ思いやりのなさすぎることではないか。
 もし思いやりがなさすぎるのでなければ思いやりがありすぎることなのだ。
 この事件が「発表」されたという事件に就いて、判らない点はまだまだある。新聞紙が伝える処によると、この「発表」の仕
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