学献金を奉納した小原宗の「父兄」達は、黙っている筈はないのである。
三沢氏も亦特色ある人物で、台湾高等学校の校長から、京都帝大の学生課長として乗り込んだ人である。多分赤色教授への重しの意味で勅任の学生課長を必要とする処から、選ばれたという噂であったが、学生課には過ぎ者の物判りの良さ(即ち自由主義)の所有者だったので、成城落ちをしたのだそうである、個人に就いての噂さはどうでもいいが、府の学務課から三沢氏排斥教員の解職を命じて来た点はここからも理解されよう。
小原氏が態よく逃げ出して了えば氏の身柄にも傷がつかずに済んだものを「師弟の情」か何か教育家の特権にぞくするものを利用しようとしたために、三沢派の教員から背任横領で告発され、藪蛇の結果を見たのである。
四カ月に亙る学園の紛争自身は、児玉秀雄伯の総長就任と共に解決したが、解決しないのは学園の会計に関わる小原氏の一身上の問題である。結局氏の背任の事実が司直の手で明らかになったので、紛争が解決した今日、告訴を取り下げるにも時期は遅すぎるという破目になって了っているのである。
小原氏は成城の公金五万八千円をまんざら私用にばかり費したので
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